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企画力・開発力アップのための近未来デザインシナリオ法講座 |
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これからの企業の経営戦略は5年先、10年先に向けて、その企業独自の「仮説」を提示しない限り成立しない。また、商品開発・事業計画・技術開発の分野においても、近未来や未来をみすえた“デザイン”の必要性がいま問われはじめている。
各分野での“モノからコトへ”という発想転換のなかで、「コトのデザイン」がもつ役割はしだいに大きくなりつつある。そして、その近未来生活の仮説をたてるのに必要となるのが「シナリオ発想」だといえるのである。
この講座では、今後のマネジメントにおける“近未来デザイン”の重要性と、そのデザインを描くための“シナリオ法の基礎技術”について、実際の事例をあげながら解説する。はじめに、これまで戦後日本の商品開発がどのように行われてきたのかを確認し、われわれの生活のなかで“デザイン”のもつ役割というものを探ってみたい。
1951年、つまり戦後復興して間もないときのことである。アメリカの市場視察を終えた視察団の一行が羽田国際空港に降りたった。その視察団のなかに、いまは亡き松下幸之助氏の姿があった。そしてタラップを降りたときの氏のステートメントは、次のようなものだった。
「これからはデザインやで」
この短いセリフはデザイン界ならずとも幾度となく引用され、語りぐさとなっている。
この言葉は、これからの企業経営のなかにデザインが不可欠であることを感じとってのことに違いなかった。たしかに、当時のアメリカの市場は豊かで成熟していた。街には文化の香り高い商品が豊富にあり、まるで花畑か鈴なりの果樹園のようであったに違いない。それらの商品はいずれも彼らの生活のスタイルに沿って企画され、デザインされていた。つまり、機能一点ばりの素っ気ない表情ではなく、氏の目には文化の香りがする魅力あるものにみえたに違いない。
事実、同じことをわれわれは子供のころに少なからず体験したものである。子供心にも小学校時代には駐留しているアメリカ軍からの放出物資に、幾度となくお世話になったことをおぼえている。
5cmにも満たない小さな紙に包まれたチューインガムの文字や色が放つ、めずらしさや美しさの奥に、時代のなにものかを表現している情報を感じとり、興奮にも似た感情をもったものである。学校に支給される乾電池からオレンジジュース、ミルク、そしてこれらを包む段ボールに印刷された活字からさえ刺激を受けた。そして、彼らの着用しているユニホームから靴にいたるまで、あるいは軍用のジープやトラックなど機械のもつ形態から受けた印象は、“異文化の顔”にふれた強烈な出来事として脳裏に焼きついた。
しかし、モノ不足の当時の日本人が抱いた豊かさへの憧れも、以後、商品から受ける情報だけではなく、広い文化的媒体によって刺激を受けるところとなった。つまり、われわれはチューインガムやジープなどの「モノ」からの刺激だけではなく、雑誌や音楽のなかにこめられた文化の香りを嗅ぐことによって「モノ」と「情報」を関係づけて影響を受けるところとなったのである。
きわめつけはなんといっても映画である。当時の娯楽の中心が映画であったことも手伝って、そのなかに表現されていた文明・文化のメッセージは強く映像情報のなかにあふれており、しかも理解しやすかった。だから、映画が教師であり、教科書であったといっても決して過言ではない(そういう意味では映像のもつコミュニケーションの力は今後も変わらないし、むしろこの講座の鍵ともなっている)。
テレビが各家庭に入るにおよんで、商品からの情報刺激が、単に家庭やオフィスや公共の場でみられたり、ふれられることを通じてのものにとどまらず、映像のなかのドラマは生活の仕方そのものをメッセージとして伝えるところとなった。
アメリカのテレビ番組は映画同様に日本でもオン・エアされた。たとえば、ホームドラマのなかでは、どの家庭にも大型の冷蔵庫があり、学校から帰った子供は冷蔵庫のなかからミルクのビンを取りだす。こうしたシーンは、子供を通じてアメリカの生活のスタイルを示していた。ドラマの1シーンは牛乳やジュースや冷蔵庫というモノの情報だけではなく、子供と学校、キッチン(家庭)を結ぶ線的な行動によって生活の行為や様式を知るところとなったからである。これらの番組を見るわれわれにとって、異文化、つまり様式の異なった国の生活の1シーンは強い刺激だった。そしてその刺激の内容は、これからの日本人の生活はアメリカに似たものでよいのか、あるいはまったく違った生活行為をもつべきだろうか、などのことを一瞬のうちに、あるいは継続的に潜在的に考えさせたのである。この場合の憧れは、もはや「同じものをもちたい」という欲求感情ではなく、豊かさのレベルは憧れとして受けとめたとしても、われわれの生活の流儀に照らし合わせるというフィルターとそのための時間を要した。
しかし、世の中の出来事はすべての人が同じように受けとめているわけではない。したがって、まったく同じ生活の行為をある人は憧れの対象として受けとめたであろうし、また、ある人はドラマのなかにある物質的、環境的豊かさを欲求として認めつつも、生活行為の様式までは認められなかったのである。
振り返ってみると、このような生活物資の不足と異文化に接する機会は、現在生活している日本国民全体にとってはじめての体験であったといっていい。だから、ひたすらモノへの執着が強くなったこと、さらには異文化にみる豊かさが、将来の目標として憧れとなったのも当然のことであった。このことは、われわれ日本人が進むべき方向として同じベクトルをもち合わせた理由のひとつであろう。
それは製品を企画し、開発する際の目標としてとらえやすかったことは事実である。確かに、当時の日本はモノ不足であり、内需用の商品開発でさえ“憧れ”をその出発点としていた。つまり、目標はアメリカをはじめとするヨーロッパ先進国の豊かさであった。
目標が先進国の生活そのものにあり、視覚的にも具体的であること、ましてや個々の製品にみる具体性が刺激であり、努力して近づくに値するものであった。そして、彼らのレベルに追いつくのに適当な開発距離があったことも幸いしていた。
商品企画・開発のために先進諸国のそれを参考にしたり、ヒントとすることにおいて、ややもすると物真似といわれるデッド・コピーも多発した。もちろん、物真似は決して日本だけではなく、発展する過程では多かれ少なかれ発生しやすいものである。
当時の新聞、ラジオなどでは日常的にこのような状況が報じられた。たしかに、ヨーロッパやアメリカの市場や情報媒体を通じて、コピーは盛んに行われた。ヨーロッパやアメリカなどで行われる各種の展示会で日本人がマークされたことも事実である。
物真似を行うにもいろいろなパターンがあったようである。コピーそのものを悪いことだと知りつつ行う場合、あるいはまったくモラルを感じないで真似をする、などである。
中国の言葉に“習・理・破”という創造までの過程を示した言葉がある。
この言葉は、創造的なこと、つまりオリジナリティーはいきなり発想できるものではないことをあらわしている。それにはプロセスあるいはステップといわれる段階があって、最初は既存の物事のなかにある原理、原則を模倣するところからはじまるという。まず、それらの内容を習うことがスタートだとし、そして、内容の原理・原則をしっかりと理解する。つまり、知ることにおよんではじめて創造を発揮する域に到達するといわれているのである。創造とは既存の物事の内容を破ること、否定することである。
日本の製品開発の経緯をみるとき、たしかに模倣、つまり物真似があった。日本の模倣は事実めだった存在ではあった。したがって“日本人の物真似”という批判が強調されたようだ。しかし見方をかえると、日本人の先進諸国の製品に対する憧れが強かったことも理由のひとつであろう。また、江戸時代以来の閉鎖的環境のなかで行われたモノづくりは、誰が設計・デザインしたのかがわからない例が多い。むしろ、多くの人びとの手にかかり、集約されてできあがっていった製品が多い。つまり、アノニマス(無名性)といわれる、代々多くの職人たちの改良、修正の積み重ねによって自然に生活に密着した道具となる例である。このような場合はたしかに工業所有権等の法の拘束はない。
このようなモノづくりの背景にあっては、ややもするとオリジナリティーの尊重を見過ごし、結果的にコピーしやすい状況が生まれ易くなるかもしれない。しかしながら、経済性、つまり利益を上げんがための意識が強く、意識、無意識のうちにある手本へと近づくことになりやすいのも事実である。皮肉にも日本の行政にデザインの窓口ができたわけは、各国からデザイン盗用のクレームをつきつけられたためであったという。
しかし、ここで強調しておきたいことは、目標を具体的なビジョンとして示さなければ商品開発は難しいということである。
この単純なことが、モノづくりにかかわる大勢の人の知恵を集中し、集約させることにつながるのである。また、粘り強く継続的に完成までのプロセスを実行するための大事なイメージ・キーワードなのである。
モノづくりの経緯をわかりやすくするために、あえて終戦までさかのぼってみる。1945年から49年が経過した。この年月を振り返ってみると、この間の経緯を説明するのに格好の説がある。
周知のとおり、アメリカの心理学者であるアブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908〜1970)の学説によれば、人間の欲求は、いわば5段階のピラミッド型をしている。図表1-1の5段階発達説を戦後の各時代の節に当てはめてみると、図表1-2のように概略4つにわけて示される。そして戦後日本の市場発展の経緯は、この学説に付合する点がきわめて多いことが理解できるのである。
1945年から1960年までの15年間はA.マズローのいう第1次欲求の生理的欲求・安全欲求に相当する。市場は導入期であり、食糧難、モノ不足の状況といえる。しかし、生活苦の反面、戦争からの解放により精神的には希望に満ちた意識をもっていた。後半にはラジオ、テレビ等のマス・メディアの発達によって先に述べたごとく、生活面への潜在的な憧れといえる欲求を強め、それを顕在化させるインパクトを与えた。また、行政や企業にあっては、アメリカ駐留軍家庭で使用する道具の開発が後の技術蓄積に寄与するところとなっている。しかし、この時期はあくまでも、モノ不足の時代であるため、製品開発のポイントは機能・性能を中心としたものであり、それで顧客の満足を得ていた。
1960年から1970年頃までは社会的欲求の時代といえる。社会的欲求は所属と愛の欲求ともいわれるが、仲間に所属したい、受け入れられたいという欲求である。だから「人がもっているから自分ももちたい」という人並志向的な欲求である。したがって商品にステータス性を求める傾向も当然の成り行きであらわれた。これらのことが顕著に示されたのが、当時の3種の神器である。電気釜にはじまりテレビ、クーラー、車などが続いた。無理をしてでもそれらを購入し“人並み”になることへの動機が強く働いたのである。商品にはひたすら象徴的な訴求力が求められた。とくにテレビなどは現在みたら仏壇と思えるようなもので、花などを飾り、部屋の中心に鎮座している風景がよくみられたものである。
このことは同じ「型」を大量につくるため、生産する側からは好都合なことであった。このような状況における商品企画・開発は大量生産の論理にとって比較的都合のよいシナリオで果たせたわけである。海外の商品が個性化をはかっているのに対して、大量生産と大量消費の論理から、むしろ、市場を大きくもつための没個性的、汎用的企画・開発が優先したのもうなずけよう。
したがって日本では、アルビン・トフラーのいう工業化社会における「型文化」の頂点がこの時代といっても過言ではないだろう。大量に生産され、市場にでたものは、モノでありながら言葉にも似た一種の記号性をもち、そこに社会的価値としての象徴的魅力をもたせることが課題となった時代である。
1970年から1980年は高度成長期の大量生産、消費にもとづき、市場はゼロ・サム型にむかい市場は成熟化してきた。先進諸国の近代的文化生活への憧れという高度成長期までの意識と異なり、漠然とした欲求ではあるが自分の存在を明らかにしたいという欲求に変化をしてきた。いわゆる“自我欲求の時代”といわれる傾向だが、この変化の意味は大きい。それは基本的に問題が「個」の領域であるためである。その意味するところは自分と他者との間に何らかの差をつけたいとする欲求の発生である。いわば“ミーイズムといわれる、めだちたい、差異を感じたいという欲求で、デザイン上では差別化、個性化として求められた。
つまり、従来の大量生産・消費にもとづくマス・プロダクションの論理にかげりが生じはじめたわけである。企画・開発の手段としては、“大衆”という言葉に代表されるマス・マーケティングでは「個」のもつ意識は、捉えがたい存在となってきた。そして、表面的にみえにくいコト(情報)を調査し、整理・分析する方法が求められはじめた。企業は何らかの方法で自社の姿勢を明らかにすることを余儀なくされ、CI(Corporate
Identity)の導入をはじめたのもこのような理由による。
1980年代はさらにこの傾向が進み、自己実現欲求の時代といわれるように、「私は私、他者は他者」という関係のとり方や意識のもち方に個性化された自分を投影してみる動きが顕著となった。そして結果として多様化現象を生みだした。このことはマス・プロダクトの論理からすると逆行する方向であり、多様化、個性化による市場の分化が進んだ。そのことは当然、商品の企画・開発にも影響し、「違ったものを多種類つくる」ということになる。ここで、重要な問題が残されていた。それは、“憧れ”にもとづく市場情報がいつの間にか消え、みえにくくなってしまったことである。いかにしてこの新たな目標を導きだし創造するかが、企画・開発の鍵となっているのが今日であるといっていいだろう。
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